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鈴木春信(すずきはるのぶ)は江戸中期の浮世絵師で錦絵の祖

絵が楽しくなるコラム この記事は約 21 分で読めます。 147 Views

 

浮世絵は、丹絵、紅江、漆絵、紅摺絵から始まりました

鈴木春信(すずきはるのぶ 1725? – 1770)は、江戸時代の中頃に活躍した浮世絵師です。そして、錦絵(にしきえ)の創始者としても知られています。

あなたは浮世絵から何を連想しますか? 私はフィンセント・ファン・ゴッホが浮かびました(笑)。ゴッホは浮世絵の模写をしています。

歌川広重の《名所江戸百景 亀戸梅屋舗(かめいどうめやしき)》や《名所江戸百景 大はしあたけの夕立》。渓斎英泉(けいさいえいせん)の《雲龍打掛の花魁(うんりゅううちかけのおいらん)》は『パリ・イリュストレ』誌の表紙に左右反転して掲載されたものをそのまま写しました。

背景が浮世絵でびっしりと埋められ、ぐっとお得感のある《タンギー爺さんの肖像》が、私のお気に入りです。

フィンセント・ファン・ゴッホ / タンギー爺さん / 1887年 / 
油彩、キャンバス / 92  ×  75 cm  / ロダン美術館(パリ)

背景の浮世絵は反転したままの英泉をはじめ、歌川国貞の《三世岩井粂三郎(いわいためざぶろう)の三浦屋高尾》、歌川広重の《五十三次名所図会(めいしょずえ) 四十五 石薬師 義経さくら範頼の祠(のりよりのほこら)》《富士三十六景 さがみ川》などのパッチワークです。

しかし、ゴッホを魅了した浮世絵は、初めからこのようにキリリとした佇まいを見せていたのではありません。

一般的に考えられる浮世絵は、多色摺木版画(たしょくずりもくはんが)です。版元(出版社)があり、絵師と彫師(ほりし)と摺師(すりし)のチームで描きました。では、そうなる前はどうだったのでしょう?

春信が活躍する100年ほど前、浮世絵は菱川師宣(ひしかわもろのぶ 1618 – 1694)から始まりました。師宣は《見返り美人図》でも知られています。この絵は浮世絵ですが木版画ではなく肉筆画です。

菱川師宣 / 見返り美人図 / 江戸時代・元禄年間(1688 − 1704)前期 / 
絹本着色 / 63.0  × 31.2 cm / 東京国立博物館

無名時代の師宣が描いた浮世絵は、版本(はんぽん 木版で印刷された本)の挿絵でした。師宣の絵は人気を博し、紙面にしめる割合をズンズン大きくします。絵に押され文章がなくなり、本の形態もなくなり、ついに観賞にたえる一枚の絵画作品にまでなりました。

菱川師宣 / 衝立のかげ / 延宝(1673 − 1681頃) / 
大判墨摺絵 / 27.2  × 38.4 cm  / シカゴ美術館

これをこれまでの版本の挿絵に対して、「一枚絵(いちまいえ)」といいます。

墨一色で摺られており、一枚絵になっているものを「墨摺絵(すみずりえ)」といいます。墨摺絵は輪郭だけなので、塗り絵のようなものです。そこで筆彩色をほどこしたものも登場しました。

「丹絵(たんえ)」「紅絵(べにえ)」「漆絵(うるしえ)」「水絵(みずえ)」があります。

丹絵(1690 − 1720)は、鉱物系顔料の鉛丹(えんたん)の赤を基調色に黄色や緑色も添えました。鳥居清倍(とりいきよます)の《市川團十郎の竹抜き五郎》が知られています。

鳥居清倍 / 市川団十郎の竹抜き五郎 /  江戸時代・元禄10年(1697) / 
大大判 丹絵  /  54.7  ×  32.0 cm  /  東京国立博物館

紅絵(1741 − 1744)は、基調色の赤が紅花から採った植物性染料に変わります。

紅絵は、紅というよりは淡いピンク色でしょうか。黄土色、草色、黄色、藍色、緑色などを添えます。基調色が変わることで全体に淡彩となり、画風も力強いものから繊細なものに変わりました。

石川豊信 / 初代瀬川菊之丞の傾城(けいせい)/ 江戸時代・延享・寛延期(1744 − 1751) /
幅広柱絵判 紅絵 /  65.5 × 22.9 cm  / ボストン美術館

漆絵は、紅絵から派生しました。墨の部分に膠(にかわ)を多く加え、漆塗りのような光沢をあたえたものです。

水絵は、輪郭に墨を用いず、紅、黄、緑などの淡色だけの色板で摺りました。錦絵の直前に流行します。

これらとは別に俳諧人たちにより、多色摺木版画が句集の表紙絵などに使われました(1716 − 1736)。

その後(1736 − 1741)版木に目印をつける方法が開発され、版本から一枚絵になりました。「紅摺絵(べにずりえ)」です。

この目印のことを「見当」といいます。見当をつける、見当ちがいなどの語源です。版木を横にして、左下から1/3に – 型の「引き付け見当」、右下角に 」型の「カギ型見当」を設け紙の位置を合わせました。

私はてっきり四隅に 」4つかと思っていました。現在の印刷物で目印は、四隅四辺で8つ必要です。

現在の目印は「トンボ」「トリムマーク」といいます。トンボは ○ と + とを重ねた形が昆虫のトンボに似ているから、トリムマークは用途からの命名です。

「版ずれ」のことは「見当ずれ」ともいいます。紅摺絵の名残りです。

紅摺絵は名前こそ紅絵と似ていますが、技法のほかに配色も大きくちがいます。トーンで考えると、紅絵は「ライトグレイッシュ」でうっすらと、紅摺絵は「ダル」か「ディープ」でパキパキパキでしょうか。

石川豊信 / 初代尾上菊五郎と初代中村喜代三郎 / 寛延2 − 宝暦2年(1749 − 1752) /
大判 紅摺絵 /  42.6 × 30.7 cm  / ボストン美術館

配色だけで考えたら、赤色ドスンの丹絵の頃まで戻ったようです。が、それまでは、墨摺絵に手で色を付けていたので、版木で彩色する紅摺絵は大きな進歩といえます。ここまでが浮世絵史の前期です。

春信の描く錦絵は、絵暦の交換会から誕生しました

いよいよ鈴木晴信の描く錦絵の登場です。浮世絵史の中期は裕福な好事家(こうずか)たちの間で行われた、絵暦(えごよみ)の交換会から始まりました(1764)。

ここで暦の話を少しします。当時の暦は、月の満ち欠けに太陽の動きも加えた「太陰太陽暦(たいいんたいようれき)」が使われていました。

新月から満月になりまた新月に戻るまでを、1ヶ月としました。日数にして約29.53日です。

1年は、約29.53日 × 12 = 約354.36日です。

が、29.53日では端数なので、1ヶ月を30日ある「大の月」と29日ある「小の月」とにしました。それぞれ6回にすると1年が354日になります。

すると、約354.36日 – 354日 = 約0.36日。

1年で、約1/3日が余ります。そのため3年に1回ほど、小の月の日数を1日増やして1年を355日にしました。

また、太陰暦の1年は354.36日ですが、太陽暦の1年は約365.24日です。

約365.24日  –  約354.36日 = 約10.88日。

こちらは1年で、約11日足りません。このままにしておくと、翌年の1月1日は約11日早くやってくるようになり・・・と、季節と暦とが合わなくなっていきます。

3年で考えると、約1ヶ月の不足なので、約3年に1回(正確には19年に7回)閏月(うるうづき)を加え、1年を13ヶ月とし、季節とのずれを調整しました。

このように1年は、354日と355日、閏年では383日と384日の4通りになりました。さらに大小の月の並びも毎年変わりました。

そして各年の月の大小の並び方、閏月を知ることは大変重要なことでした。月末に集金のある商店では、「大」と「小」との看板を作り店頭に掲げたほどです。

暦がゆきわたるにつれ、大の月、小の月の並べ方を記す「大小暦(だいしょうれき)」「大小(だいしょう)」と呼ばれる暦ができました(1684 − 1704)。初期の大小暦は挿絵はあっても、墨一色で番付のような表組みでした。

が、1,600石取りの旗本、大久保巨川(おおくぼきょせん)、1,000石の阿倍莎鶏(あべしゃけい)の好事家が中心となり、大小暦の交換会を行いました。そして墨一色の表組みは、多色摺木版画の絵暦に取って代わりました。

紅摺絵により色版で色彩する技術が確立しました。が、日々目に留める暦はまっくろな墨摺絵です。

大小暦に必要な文字情報は、今のカレンダーとはちがい「明和二乙酉年 大 二 三 五 六 八 十」と、その年と30日ある大の月だけです。ここさえ押さえておけば、暦のデザインは思うがままです。

平安末期から描かれた「葦手絵(あしでえ)」という装飾文字あります。水辺の風景の中にある、葦、流水、水鳥、岩などを変形した文字で描きました。

暦の文字は表組みにはせずに、変形こそしないまでも、洗濯物の着物の柄に似せこっそり隠すこともできます。

個人的な贈り物や宣伝などに使う、非売品の木版画を「摺物(すりもの)」といいます。暦は実用と装飾と遊び心まで兼ね備え、摺物にするにはうってつけでした。

そして、このとき好事家たちの依頼を受け活躍した絵師が鈴木春信でした。春信は色彩感覚がすば抜けており、彼らの教養にも応えることができました。

かくして、贅の限りを尽くした多色摺木版画の絵暦が、短期間でポンと誕生したのです。

鈴木春信 / 夕立 / 明和2年(1765)絵暦 / 中判摺物 /  27.8 × 20.2 cm  / 
ボストン美術館

洗濯物の模様に「大、二、三、五、六、八、十、メ、イ、ワ、二」とあり、帯に「乙、ト、リ」とあります。明和2年の大の月の絵暦です。

紅摺絵は20年続きましたが、絵暦は2年ほどで廃れました(驚)。本来ならばポイと廃棄するはずの版木を、その美しさに商魂を刺激された版元が譲り受けました。

暦と工案者の部分を削り、配色もコントラストを加え摺物ではなく商品として販売しました。

鈴木春信 / 水売り / 明和2年(1765)絵暦 / 
中判摺物 / 26.4  × 19.7 cm  / シカゴ美術館

木の看板の文字は「多龍」とも読めますが「水龍」です。右から左に読みますので「龍水」、「瀧水(たきみず)」です。

左の「水」の文字は「三」「二」からなります。「龍」の文字の偏(へん)は「六」「五」で、旁(つくり)は「十」「八」です。そして右上のマークは「大」を図案化したものです。「大、二、三、五、六、八、十」が隠されていました。

鈴木春信 / 水売り / もと明和2年(1765)絵暦 / 
中判錦絵 / 26.4  × 19.7 cm  / 東京国立博物館

京都ではなく東夷(あずまえびす)で描かれた、西陣織などの絹織物にも匹敵する美しい絵、という意味を込めて「吾妻錦絵(あづまにしきえ)」「東錦絵」と命名しました。「錦絵」の誕生です。

「世の中は酒と女が敵(かたき)なり どうか敵にめぐりあいたい」。私は子どもの頃にこれを聞いて、そういうものかと思いました。

狂歌師や戯作者(げさくしゃ)として知られている大田南畝(おおたなんぽ 1749 – 1823)の狂歌です。

「東(あずま)錦絵を詠まず 忽(たちま)ち吾妻錦絵(あずまにしきえ)と移ってより 一枚の紅摺沽(う)れざる時 鳥居は何ぞ敢(あ)えて春信に勝(かな)わん 男女(なんにょ)写し成す当世の姿」と南畝は詠んでいます。

錦絵以前の浮世絵は、鳥居清信(1664 – 1729)を祖とする鳥居派の役者絵と、西村重長(1697? − 1756)とその門人の石川豊信(1716 − 1785)らの美人画が流行していました。

錦絵の登場により、色数の少ない紅摺絵は瞬く間に廃れました。色彩豊かな春信の美人画が江戸市中にフワッとあふれました。

錦絵の創始者、鈴木春信の人物像

片岡球子 / 面構(つらがまえ)浮世絵師鈴木春信と博物学者平賀源内 のうち左隻(させき)/
昭和60年(1985) / 紙本着色、二曲一双 (にきょくいっそう)/ 横浜美術館

ところで、鈴木春信とはどんな人物だったのでしょう?

本性を穂積、鈴木氏、通称を次郎兵衛あるいは次兵衛と伝えられています。出身については不明ですが武士でした。

戯作者、狂歌師の万象亭(まんぞうてい 1754 – 1810)の『反古籠(ほうぐかご クズかご)』には「神田白壁町の戸主(こしゅ)なり。画は西川に学ぶ 風来先生と同所にて常に往来す 錦絵は翁の工夫なりといふ」とあります。

春信は今のJR神田駅付近で、家主をしていました。生活のためというより趣味が高じて絵師となったようにも思われます。

京都の西川祐信(にしかわすけのぶ 1761 − 1750)に学びました。京都まで行き祐信の門下に入り高弟となり、西川家の過去帳に記されるほどになりました。

『絵本わかみどり(和歌緑)』では、祐信の絵本のいくつもの場面から借用して2巻の墨摺絵本にしています。春信が書いた序文では「蠅(はゑ)の足に墨つけて歩(あゆみ)たるにひとしければ」と自ら描いた絵を謙遜しています。

風来先生は平賀源内(1728 – 1780)のことです。春信とは大家と店子の関係で、錦絵を工夫したのも春信だといっています。広告文案も得意で、吾妻錦絵の命名も源内ではと考えられています。

春信は1760年の役者絵がもっとも古い作品で、デビューは30代半ば以降です。錦絵を描いたのはわずか6年ほどで、1770年に46歳で急死しました。

「十五日大和絵師鈴木春信死す。此人浮世絵に妙を得たり、今の錦絵といふものは此人を祖とす。明和二年乙酉の頃よりして其の名高し。この人一生役者の絵をかかずして云、我は大和絵師なり。なんぞ河原者(歌舞伎役者)の形を画くにたへんやと、其の志しその如し。」と南畝は記しています。 

春信は自ら、平安時代以来の伝統的な絵画様式を受け継ぐ、大和絵師だと名乗っています。安価な役者絵を描くことを快くは思っていないようでした。後に美人画で開花する、モリモリとした春信のポテンシャルが伺えます。

春信の活躍した期間は10年ほどと短いです。が、紅摺絵、水絵、錦絵、などの一枚絵や、絵本、版本挿絵や艶本のほか、少数ですが肉筆画も手がけています。1000点をこえる作品を残しました。

鈴木春信の代表作、見立絵、八景もの、笠森お仙

絵の話に戻します。絵暦のこっそり暦「大 二 三 五 六 八 十」が、いともたやすく削られてしまいました。

よく知られている古典文学、故事、史実などを、当世の身近なものに置き換えて描いた絵画を、見立絵(みたてえ)といいます。絵画の中に隠された古典を探しながら鑑賞します。

日本の絵画史上で、いちばん見立絵を手掛けたのは春信といわれています。

春信は「源氏物語」「伊勢物語」や和歌、漢詩などの古典文学、伝説、謡曲などの芸能、「八景もの」などの景勝地を元にした作品も手掛けました。

八景とは、中国の「瀟湘八景(しょうしょうはっけい)」のことです。瀟湘は湖南省(こなんしょう)を流れる「瀟水(しょうすい)」「湘水(しょうすい)」のふたつの河に基づく地名です。これらが合流して洞庭湖(どうていこ)に注ぐ地域をいいます。ややこしいですが。

景勝地として知られており、11世紀に活躍したが画家、宋廸(そうてき)は8通りの景観を選び描きました。

八景図のひとつ《洞庭秋月(どうていしゅうげつ)》は、岳陽市岳陽楼(がくようしがくようろう)の洞庭湖の上に浮かぶ秋の月を描いたものです。

見立絵では「秋月」を秋の夜の月と、それが水面に反射する姿の組み合わせで踏襲(とうしゅう)することもあります。

たとえば《近江八景(おうみはっけい)》では、地名を差し替え《石山秋月 (いしやまのしゅうげつ)》としました。

春信は座敷を瀟湘に見立て、《座鋪八景(ざしきはっけい)》8枚揃えを描きました(1776)。そして《洞庭秋月》を《鏡台の秋月(きょうだいのしゅうげつ)》とします。

鈴木春信 / 座鋪八景 鏡台の秋月/ 明和3年(1766)頃 / 中判錦絵 /  28.0 × 20.6 cm  / 
ボストン美術館

が、振袖の娘が髪を結ってもらっている姿を、洞庭湖の上に浮かぶ秋の月の風景にどう見立てたのかが、いっこうに分かりません。

これは鏡台の丸い鏡を満月、窓の外の芒(すすき)で秋月に見立てたものです。

ちなみに残りの七景は「晴嵐(せいらん)」「晩鐘(ばんしょう)」「夜雨(よさめ)」「夕照(せきしょう)」「帰帆(きはん)」「落雁(らくがん)」「暮雪(ぼせつ)」と続きます。

「夜雨」は、夜中に降る雨の風景です。これを風炉(ふろ 茶の湯の席で湯をわかすのに使う炉)にかけた釜の湯が沸く音を夜雨にしました。《台子の夜雨(だいすのよさめ)》。

「落雁」は、広い空間で飛ぶ雁の群れ。これを琴柱(ことじ)が並んだ様子を雁が群れを組んで飛ぶ様子に見立てました。《琴路の落雁》。

なんとも高尚すぎて難解です。せめて、瀟湘八景を知っていないと、肝心の見立のところはスルーとなり魅力半減です。春信の見立絵に、出典が文字情報で記されていることはほとんどありません。

一方同じ見立絵でも《見立玉虫(みたてたまむし) 屋島の合戦》《見立那須与一(みたてなすのよいち) 屋島の合戦》は『平家物語』『源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)』の那須与一の逸話だとすぐに分かります。

鈴木春信 / 見立玉虫 屋島の合戦/ 明和3 − 4年(1766 − 1767)頃 /
中判錦絵2枚続のうちの左 /  28.7 × 21.7 cm  / ボストン美術館

鈴木春信 / 見立那須与一 屋島の合戦/ 明和3 − 4年(1766 − 1767)頃 /
中判錦絵2枚続のうちの右 /  28.8 × 20.8 cm  / 個人蔵

屋島の合戦で源氏方で弓の名手の那須与一が、平家方の小舟の竿に立てられた扇を射落とすおなじみの一席です。

春信は、茄子畑を背景に恋文を結んだ矢を構える若衆(わかしゅう)を与一に見立ます。弓矢は後ろの案山子から借りたようです。

扇を片手に小舟に立つ若い娘は、平家方の女官、玉虫に見立てられています。振袖には平家の軍船を思わせる帆船のパターンも描かれています。

落ちは、若衆の足元に積んである扇型の箱です。若衆は扇に貼る紙を売る地紙売りでした。

ほぼ楽しめそうな見立絵もあります。が、春信の錦絵は高価で、鑑賞者には絵暦交換会の流れを組む、裕福で教養のある層を考えていたようです。やはり、知識がなければ解けない見立絵ほど好まれました。

しかし、春信はここに来て(1768)、江戸市中に実在した美人や名所、吉原の遊女など名入りで描くなど、当世の出来事を取り入れ大衆層に向かいグイと舵を取りました。

笠森お仙(かさもりおせん 1751 − 1827)は、江戸谷中笠森稲荷(やなかかさもりいなり)門前の水茶屋「鍵屋」の看板娘で、晴信が最も多く描いた実在の人物です。

鈴木春信 / 鍵屋お仙と猫を抱く若衆/ 明和6年(1769)頃 / 中判錦絵 /  28.8 × 20.8 cm  / 
個人蔵

春信は文字情報がなくてもお仙と分かるアイコンとして、鳥居、杉並木、水茶屋の様子、着物の蔦の紋(つたのもん)を添えました。

お仙は、浅草寺奥山の楊枝屋「本柳屋」の看板娘、柳屋お藤(やなぎやおふじ)と人気を二分し、また二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」の看板娘、蔦屋およし(つたやおよし)も含めて明和(1764 − 1772)の三美人のひとりとされます。

「水茶屋」は道端や寺社の境内で、よしず張りの中に茶道具一式を置き、一服一銭の安い茶をふるまいます。葉茶を売る葉茶屋と区別して水茶屋といいました。

お仙は12歳のころから店に出ていました。江戸中の評判となり、南畝が「谷中笠森稲荷地内水茶屋女お仙 十八歳 美なりとて皆人見に行(中略)、錦絵の一枚絵、或いは絵草紙、双六よみ売等に出る、手に染まる」と記しました。お仙のグッズまで販売されたようです。

「向こう横丁のお稲荷さんへ 一銭あげて ざっと拝んで おせんの茶屋へ」と手毬唄にも歌われます。あなたも、聞いたことはありませんか? 

また、春信はこの頃(1768)、美人画に江戸の名所を織り込むことが多くなりました。

《風流江戸八景(1768)》では《浅草の晴嵐》《両国橋夕照》《品川帰帆》《日本堤夜雨》《上野の晩鐘》《駒形秋月》《角田川落雁(すみだがわらくがん)》《真乳山暮雪(まつちやまぼせつ)》を描きました。

品川のほかは浅草とその近隣です。風景より人物にウエイトが置かれ、《上野の晩鐘》以外は美人風俗図です。

浮世絵のテーマに風景が取り上げられたのは、意外と早く1716 − 1735年頃とされています。西洋から伝えられた遠近法がこれを後押ししました。

遠近法を加えた浮世絵を「浮絵」、遠景がくぼんで見えるので「くぼみ絵」とも呼ばれました(1739)。

庶民の旅は1716 − 1736年頃から盛んとなり、1804 − 1830年にブームになります。

このことを背景に、葛飾北斎の《富嶽三十六景》や歌川広重の《東海道五十三次》が描かれます。そして風景画(名所絵)は役者絵、美人画と並ぶ錦絵のテーマのひとつになりました。浮世絵史の後期(1807 − 1858)に含まれます。

晴信は《臥龍梅(がりょうばい)》で、梅の木の前で一息つく男女とお付きの三人を描いています。当時亀戸にあった清香庵(せいこうあん)は、梅園として人気がありました。

ここはゴッホの模写でも知られている、広重の《亀戸梅屋舗》の場所です。広重が描く90年ほど前、春信はいち早く臥龍梅を背景に取り入れていました。

《絵本青楼美人合(えほんよしわらびじんあわせ 1770)》は5巻5冊にまとめた彩色摺絵本です。当時実在した吉原の遊女166名の居住まいを、各々が読んだ発句(ほっく)を添え多色摺で描きました。

1巻は春の巻きで遊女の桜を詠んだ句が記されています。2巻は夏の巻きで時鳥(ほととぎす)の句、3巻は秋の巻で月の句、4巻も秋の巻きで紅葉の句、5巻は冬の巻きで雪の句です。巻を追うごとに、季節の移り変わりを眺めることができます。

ちょうどこの稿を起こしているときに「青楼美人合 1冊揃 木版摺り 浮世絵版画 」がヤフオクに出品されており(驚)、21,000円で落札されました。思いがけぬ春信からのメッセージに、ポツンと悔いが残りました。

この絵本は、偶然春信の没年月に刊行された遺作です。先述したように春信は急逝(きゅうせい)しました。

春信を慕う絵師、司馬江漢、喜多川歌麿たち

ほかの浮世絵師たちは、春信の美人画を見たいと願う声に応え、しばらくは春信に倣う画風で錦絵を描いていました。

春広と名乗った磯田湖龍斎(いそだこりゅうさい 1735 – 1789)、勝川早春(1743 – 1792)、北尾重政(1739 – 1792)たちは春信を慕い倣う錦絵を描きました。

「予此(この)にせもの描きて、板行(はんこう)に彫りケルに、贋物と云う者なし。世人我を以って春信なりとす。予春信に非ざれば心伏せず、春重と号して唐画の仇英(きゅうえい)或いは周臣(しゅうしん)等が彩色の法を以って、吾国の美人を描く。」

鈴木重春(司馬江漢 しばこうかん 1747 – 1818)は春信の偽物を描いたことを告白しています。

春信が没して20年後に活躍した喜多川歌麿(きたがわうたまろ 1753? − 1806)は、既婚の女性が若い娘に巻物を渡す《お藤とおきた​》を描きました。

喜多川歌麿 / お藤とおきた/ 寛政5 − 6年頃(1793 − 1794) / 大判錦絵 /  
39.6 × 26.0 cm  /  個人蔵

着物の柄などから既婚の女性は春信が描いた笠森お仙、もうひとりは歌麿美人のひとり高島お久と分かります。絵巻物はバトンのようにも思え、歌麿自らが春信の美人画の後継者だという意思表示とも考えられています。

鈴木春信、展覧会の情報

ボストン美術館 浮世絵名品展 鈴木春信

2017年9月6日(水)− 10月23日(月)
千葉市美術館 

2017年11月3日(金・祝)− 2018年1月21日(日)
名古屋ボストン美術館 

2018年4月24日(火)− 6月24日(日)
あべのハルカス美術館

2018年7月7日(土)− 8月26日(日)
福岡市博物館

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